カウンセリング体験記1

子どもの時のことから、最近のことまで、書いておきたいことはいろいろあるけれど、それは追々書くとして、まずは私がカウンセリングを受けた時のことから書かないと、始まらないだろう。
カウンセリングを受けたのは、25歳の時、かな。おっと、既に四半世紀前か。
実は、この時のことは、18年くらい前に一度文章に書いたことがある。当時、某“相談員”という仕事をしていて、それは“カウンセラー”程の専門職ではなかったけれど、カウンセラーの下請け的な、多少カウンセリング的なこともする仕事だったもので、そこの職場の人向けに出していた“通信”に、自分の体験を書いた。その時の文章の一部が残っているので、それで記憶を補強しながら書いていこう。

カウンセリングを受けることになった直接のきっかけは、母とのケンカだった。詳しい内容は忘れたけれど、母が私のことを「わかってくれない」みたいな、思春期・反抗期のようなことだったような気がする。25にもなって。
そのケンカが“物別れ”に終わりそうだったので、私が母に、
「カウンセリングを受けるから、カウンセラーを紹介して」
と最後に言った。

私の母は、心理カウンセラーだ。私立の学校でスクールカウンセラーをしていて、この3年くらい前には、自分でカウンセリング・ルームを開設した。まだ、臨床心理士という資格も無かった頃から、カウンセラーだった。
子どもの頃から私は、母が周囲から「カウンセラーだからいいお母さん」という評価をされていることを、なんとなく感じてきていた。子どもというのは素直だし、親がいい評価をされることが嬉しくないはずもなく、「うちの母は、いいお母さん」なのだと思っていたのだろう。
「いいお母さん」に育てられているはずなのに、感じる違和感。子どもの頃は、その原因は自分にあるのだと、漠然と思っていた。そういうエピソードは、また折りがあったら書くとして。
今になってみれば、親の方に問題があったとはっきり言えるけれど、25歳の私は、母親に問題を感じ始めていて、初めて表立って反旗を翻したのが、この時のケンカだったかもしれない。
カウンセラーの母親とのケンカで、「カウンセリングを受けるからカウンセラーを紹介しろ」と言うのは、かなり辛辣だね。

18年前の文章を引用する。

ド素人相談員の カウンセリング体験記 vol.1
<図太い神経、カウンセリングを受けに行く>
「カウンセリングを受ける人」というと、たいていの場合、繊細でデリケートな神経の持ち主がイメージされるように思うのですが、私は残念ながらデリケートでも繊細でもありません。カウンセリングを受けていたのは6年前(まだ独身でした)ですが、基本的に当時も今と同様、神経が太くて図々しい、さらに鈍感な人間でした。そんな私が、どうしてカウンセリングを受けようということになったのか。その直接のきっかけは親子喧嘩(この話は、あまりに個人的なので省略します)だったのですが、本当の理由は一言で言えば「もう少し、デリカシーのある人間になりたい」というようなことでした。教師になって2年目だった私は、仕事で壁にぶつかっていること、そしてその原因が“繊細な神経”や“敏感な感性”を持ち合わせていないことにあることを、薄々感じていました(神経が太くて鈍感というのは、自分一人生きていく分には幸せでいいのですが、人間相手の仕事をしていくには、あまりいいことではないのです)。そして、カウンセリングを受けたら、何かもう少し“まし”
な自分になれるのではないかと思ったのです。
さて、そのようなクライアントを迎えたカウンセラーJ先生(知り合いの知り合いで元々顔見知りでした)は、ちょっと戸惑ったようです。日本では、こんな軽いノリでカウンセリングを受ける人はあまりいませんから。でも、とにかくカウンセリングを始めることになりました。
まず最初の面接(インテークと言います)では、私がカウンセリングを受けに来た理由を話し、そして今後どのようにカウンセリングを進めていくかを話し合いました。カウンセリングの典型的な方法は、カウンセラーとクライアントがクライアントの抱える問題について話し合う、というものだと思いますが、それ以外にもいろいろな心理療法の技法があります。J先生はいくつかの技法を提示してくれ、その中に「絵画療法」というのがありました。絵を描くことが心理療法になるという理屈は、その時はよくわからなかったのですが、私は無性に「絵画療法」をやってみたくなりました。私は絵を描くことが大の苦手で、コンプレックスもあったのですが、仕事で絵を描く必要に迫られることが多かったので、心理面が改善されてついでに絵も描けるようになったらラッキー! と思ったのです。それに絵を描いたりすると、何か感性が磨かれそうな感じもしましたし。
そして、絵画療法によるカウンセリングが始まりました。

この文章では、母のことには全く触れていない。そりゃそうだ。書き始めたら厄介なことになる。
今読むと、突っ込みどころはいろいろある文章だけど、本質的なことは触れないように書くから、まあしかたない。
しばらくは、引用を続けていくことにしよう。