カウンセリング体験記5

前回は、初めて催眠をかけて状態で絵を描いた時、“無意識”が絵を描きたくなくてふて腐れていたことを書いた。今回は、その次のカウンセリングの日のこと。
この時のことに関しては、前に書いた文章が残っているのでそれを写しつつ、少し詳しく書く。

vol.7 <『無意識くん』なぐり描きを楽しむ>
催眠2回目は、前回の反省から、J先生には特に教示などしないで無意識に自由にさせてやってほしいとお願いして、催眠をかけてもらいました。
目を閉じて催眠状態になった私に見えたのは、こんな光景。
砂漠のようなというか、平らなグランドキャニオンのような赤土の荒野というか、そんな平原の上を飛んで行く。遠くに、海に突き出した絶壁の岬のような形の、山だか岩だかが見える。飛びながらその“山”に近づいて行くと、“岬の先っぽ”の位置に洞窟のような横穴がある。その横穴の入り口に降り立った。その狭い横穴を四つ這いで奥に進んで行くと、途中から穴は下に向かっていて、梯子がかかっている。方向転換して梯子を下りていく。
催眠状態で“梯子を下りていく”間、私の手は梯子を下りるパントマイムのように動いていました。勝手に。私の意識は、
「手が動いている様子を見て、J先生は不思議に思っているだろうなぁ。催眠から覚めたら説明しなくちゃ」
などと思っていたのを覚えています。
ずいぶん長く下りていきました。本当に穴を下りていったとしたら、ずいぶん深くまで行ったんじゃないか、というくらい。真っ暗だからよくわからなかったけれど。
ここまで、という所で、梯子からぴょんと飛び降りました。そこからまた横穴が続いています。1〜2m先の左側に窓のような穴が空いていて、明るい外が見えました。その穴の前に、1人用の座卓くらいの盛り上がった部分があしました。角が丸くなった長四角で、上の面はきれいに平ら。
私はその土の台の所に行き、その上で膝を抱え込むような姿勢でしゃがみ込みました。そして、左側を向くと、やはり荒野が広がっています。夕焼けなのか赤土のせいなのか全体的にオレンジ色っぽくて、埃っぽく霞んでいるような感じ。
その時のことを思い出すと、外の光景と丸まっている自分の様子の両方の映像を覚えているから、両方の視点で見ていたのかもしれません。
土の台の上でしばらく丸まっていた後、「絵を描きたい」と思いました。そこで、
「無意識が絵を描くと言っています」
とJ先生に言いました。
目を開けて、紙と鉛筆を持たせてもらいました。
すぐに描き始めました。と言っても、何かの絵を描いたわけではありません。グルグル、グルグル、なぐり描きを始めたのです。“意識”の方は「なんでこんなことを」と思いながらも、口出しをするとまた無意識がすねると思って、なるべくよけいなことは考えないようにして、勝手に動く手と描かれていく線を見ていました。“無意識”は、小さい子どもがするように、それはそれは楽しそうに(と感じた)なぐり描きをしていました。
そして、たっぷりとなぐり描きをしたら、手は鉛筆を離しました。“無意識”は自分のやりたいこと(やりたかったこと)をやりたいだけやって、十分に満足している。そう感じました。そのことをJ先生に伝えて催眠を解いてもらい、その回のカウンセリングは終わりました。
ちょうどそのしばらく後だったと思うのですが、私の母が「こんなものが出てきた」と、レシートに描いた絵を見せてくれたことがありました。レシートの日付から推測するに、私が2歳2ヶ月の時に描いた絵だろうと思われました。それは、目も口も胴体もみなそろっている人の絵。教職課程で学んだ「描画の発達」によれば、2歳はまだ「なぐり描き期」。どうも私は、何かの間違いでなぐり描きを十分にしないまま「絵」を描くようになってしまったのではないでしょうか。この最初のつまずきの結果か、その後の「描画の発達」は惨澹たるものでした。催眠療法の中で“無意識”は、子どもの時にできなかった「なぐり描き期」を取り戻そうとしたのではないかと思います。

ここまでが、10数年前に書いた文章を基にして書いたもの。実は、以前の文章では、「無意識くん」と「無意識」を擬人化して書いていたところがあった。そかは今回「“無意識”」のように“”を付けてある。以前の文章の時には、先に「無意識くん」の説明をしてあったから、そういう書き方をしたのかと思うけど、私が自分の無意識を「無意識くん」と呼ぶようになったのは、なぐり描きをした回よりも後だったように思う。
それがいつからだったのかは覚えていない。最初の頃は、カウンセリングで催眠をかけた時に無意識が出てきて絵を描いて、その時に無意識が感じたり思ったりすることがテレパシーのように私にもわかる、というだけだったのだと思うけれど、そのうち、普段の生活の中でも「“無意識”がいる」ことを感じるようになって、それでその無意識を「無意識くん」と呼ぶようになったんじゃなかったかと思う。
次回は、普段の生活の中での無意識くんとの付き合い方の変化について、書こうかな。

カウンセリング体験記4

25年前にカウンセリングを受けた時の経験談を、18年くらい前書いた文章を、ほぼ丸写しにして綴っているのだけど、困ったことに、書いたものを一部紛失していて、vol.5とvol.6が無い。
vol.5は普通の絵画療法についての続きを書いたんじゃないかと思うけど、vol.6は初めて“催眠療法”で絵を描いた時のことを書いていたらしい。
実は現在の記憶では、初めての“催眠療法”の回と2回目の記憶がごっちゃになっていて、同じ回に続けてあった出来事のような気がしていたのだけど、残っている文章のvol.7に2回目のことが書いてあったから、そこに書いていないことだけが1回目だったのだろう。
そのように記憶を整理して、“催眠療法”第1回目のことを書いていこう。

カウンセリングを受け始めて、半年くらい経った頃だったか、J先生が、「催眠をかけて絵画療法をしたことがある」という話をしてくれた。
J先生は、私の仕事が教師だから、純粋にクライアントというよりは、カウンセリングの研修も兼ねてカウンセリングを受けている、教育分析のような意味合いもあると思ってくれていたようで、カウンセリングの方法について説明してくれることもあった。その中での話。
私は、催眠をかけられたことはなかったけれど、母がカウンセラーだったからか、何となく催眠(テレビでやるよいな“催眠術”ではなくて、心理療法とかでの催眠)のことも知っていたのだと思う。当時自分は、「催眠(も催眠術も)は、(私が自分で)かからないようにしようと思えばかからないし、かかろうと思えばかかる自信がある」とか豪語していたような気がする。
私はJ先生の話を聞いて、「催眠をかけての絵画療法」にすごく魅力を感じた。それで、私もやってみたいと話して、催眠をかけてもらうことになった。
催眠をかける時には、私は目をつぶって体を楽にして座っていて、先生が「手が〜〜なります」とか「足が〜〜なります」などと言って、その後、見える光景(先生が見せようと思う光景?)を話していったのだったように記憶している。本来は、先生の言葉に合わせてその光景が見えていくのだと思うのだけど、私の場合、ちょっと違った。先生が初めに言ったのは森の中ということだったと思うんだけど、私に見えている光景は、その先に勝手に進んでいってしまう。そんなことは知らない先生が、森の光景の続きを話すので、それが聞こえると先生の言葉に合わせるように光景が引き戻される感じになる。それが、いたく気持ちが悪かったのを覚えている。
でも、初めての催眠だし、そのまま先生の指示に従っていた。そして、先生が潮時と判断したのだろう、目を開けるように指示されて、鉛筆を持たされた。
催眠状態で絵を描くということは、自分の意識的な意志で描くというより、“無意識”が描くということ。どんな絵を描くのか…期待でドキドキ…のはずだが、この時の私は“無意識”が何だかすごくふて腐れているのを感じた。描く気がないのに、無理矢理鉛筆を持たされた、という気持ちが伝わってきた。
「伝わってきた」という表現は変かな? 意識も無意識も私なのに。でも、他に適切な表現が見つからない。無意識が感じていること、考えていることは、テレパシーのように伝わってくる感じがする。
とにかく、ふて腐れた無意識は一応鉛筆を持ったけれど、いかにもやる気無さげ。しっかり鉛筆を持たずに、ひどく薄い筆圧で、紙の左から右に向かって線を引いていく。意識の方は、見えているけれど、催眠中は手を動かす権限は無意識にあるらしい。ずっと引いていって紙の右端に近づいても、止まる様子が無いもので、
「あ、紙からはみ出しちゃう!」
と(意識が)思ったら、
ポンッ!
と、手が鉛筆を投げ出した。
無意識が怒ったのだ。しかも、
「今までも、いつも、いつも、こうだった! もう嫌だ!」
みたいなことを、無意識は叫んでいた。
その後の細かいことは忘れたけれど、J先生に催眠を解いてもらい、私は催眠中に感じていたことと、「無意識がこう言っていた」ということを話したのだと思う。
この日はどのように終わったのかも、覚えていないのだけど、「描く気のない無意識に、無理に絵を描かせるのは良くない」とか「無意識が描く気になるまで待ちましょう」みたいな話になったのではないかと思う。
さて、その次の回は?

カウンセリング体験記3

今回は、カウンセリングの料金についての話なんだけれど、10数年前の文章なので、相場の金額が今はどうなっているのかはわからない。金額はさておき、「カウンセリングの料金」についての経験と考えが書いてあるので、基本的にそのまま引用する。

vol.4 <カウンセリングのお値段>
カウンセリングを受けるには、一般にお金がかかります。カウンセリングを受ける人がお金を払わなくていいのは、学生や生徒が通ってる学校のスクールカウンセラーのカウンセリングを受ける場合や、企業が雇っているカウンセラーにそこの従業員がカウンセリングを受ける場合、それから公立の相談機関などで受ける場合等でしょう。
私は、一般のカウンセリングルームでカウンセリングを受けたので、料金がかかりました。カウンセリングの料金というのは受ける機関によってかなり幅があるようですが、私の行った所は1回(50分くらい)七千円で、まあまあ標準的な所だったと思います。ただ、学生さんとかでどうしてもそれだけの金額が払えない、という人には、話し合いをした上で「払える金額でいいよ」ということもあるようですが。ちなみに私の場合、カウンセラーのJ先生とはもともと知り合いだったもので「友達割引」をしてもらって1回五千円でした。
割引をしてもらったとしても五千円、親と同居している独身の教員だったとはいえ、週に1回ずつ通えば月に二万円ですから、大きな出費です。それでもせっせと通っていたというのは、自分にとってカウンセリングがそれだけの価値のあるものだったからです。一般にカウンセラーの間では、「カウンセリングをする場合、お金を取るべきだ」ということが言われるらしいです。それは、お金を取る以上カウンセラーの側もいい加減には関われないし、クライアントも「お金を払っているのだから」と真剣になるからだそうです。
私がそのことを実感する出来事がありました。
カウンセリングを受け始めて、2・3ヶ月経った頃だったでしょうか。いつもはカウンセリングに行くと、まずこの一週間の出来事や感じていることなどを話し、その後、絵を描いたりコラージュをしたりの絵画療法をしていました。その日はたまたま話したいことがたくさんあって、絵を描かないまま終了時間になってしまいました。J先生は、
「今日は絵を描かなかったけれど、まあ、こういう日があってもいいですよね」
と言って、その日は終了になりました。カウンセリングルームを出て駅まで向かう道すがら、私はとても後悔しました。
「絵を描かないで終わってしまった。それでも五千円。すごく損した気分だなぁ」
と。そして、次の時は、真っ先に「毎回必ず絵を描きたい」とJ先生に言おうと心に決めました。その時の私にとっては、絵画療法がとても必要なものなのだということに気がついたのです。もし、これが無料で受けられるカウンセリング、あるいは料金を払ったとしても千円程度だったとしたら、J先生の言ったように「こういう日があってもいいか」くらいに思って、カウンセリングの内容については何も感じなかったのではないでしょうか。
普通、クライアントは「今日のカウンセリングの内容は自分のニーズにあっていたか?」とか「自分にとって最も効果的なカウンセリングの方法は何か?」なんてことを、意識して考えたりはしません。でも、無意識のうちにカウンセリングを評価してはいて、お金がかかることでその評価を意識に上らせることになるのだと思います。
この「意識」と「無意識」は、カウンセリングを受けた私の成果を振り返る上で、キーワードです。このことも、いずれ書く予定です。

カウンセリング体験記2

四半世紀前の記憶があやしいから、前に書いた文章を見て思い出して書こうと思ったけれど、結局そのまま写してしまう方がよさそう。

vol.2 <絵を描く>
私が受けることになった心理療法が「絵画療法(アートセラピーともいう)」だったので、家族や身近な友達に「カウンセリングを受けに行く」と言うかわりに、よく「絵を描きに行く」と言っていました。カウンセリングに行っていることを隠していたわけではなく、相手がカウンセリングのことを知っているときに、ですが。ただ、「カウンセリングに行く」と人に言うことに、全く抵抗がなかったわけではないのだと思います。中学生にとっての「相談室に行く」も、ちょっと似ているのではないかという気がします(わざわざ、相談室には「遊びに」行くのだと強調する子がたくさんいます)。
さて、「絵を描く」の中身ですが、真っ白い紙に自由に絵を描いていたわけではありません。絵画療法には、いくつかのテクニックというか方法があるのです。
私が最初にやったのは、カウンセラーのJ先生が〈Tシャツ〉〈靴下〉〈紙袋〉などの輪郭だけを描いて、その中に私がデザインする、というものでした。画材としてはクーピーペンシルとポスカがあって、好きなほうを使っていいと言われたのですが、なにせ絵には自信がない私。ポスカのようにくっきり太く鮮やかに描けてしまうペンを使うのは怖い気がして、クーピーを選びました(消しゴム付きだし)。
一番最初の課題はTシャツでした。絵に自信はないくせに変なものは描きたくないという意識が働いて、いろいろ考えたあげく、七色使って虹を描きました。J先生に、
「どうですか?」
と出来映えについて感想を聞かれ、「きれいに書けたのでいい」というようなことを答えました。すると、続いてもう一つTシャツの枠を描いたJ先生、
「さっきのと反対のイメージのものを描いて下さい。」
え? 虹の反対?
ちょっと意表を突かれました。仕方なく連想ゲーム的発想で、
虹→きれい←→汚い→ゴミ箱
ということで、公園に置いてあるような金網のゴミ箱を描きました。そして先生から、どうしてそれを描いたのか聞かれ、描いたものについての感想を聞かれました。
二つのTシャツを比べると、〈ゴミ箱〉の方が意外性があって、圧倒的におもしろい。〈虹〉の方は無難だけれど、つまらない。自分で着るのなら絶対〈ゴミ箱〉の方・・・
などと答えました。出来映えを意識しながら頭を使って描いていたら、ゴミ箱なんて決して描かなかったでしょうが、とっさに仕方なく描いてしまったら意外によくできて、「こんなものを描いてしまってもいいんだ」という発見をして嬉しくなりました。この時、最初のハードルを越えたというか、頭を堅くしていたネジが一本抜けたような感じがしました。

vol.3 <続・絵を描く>
〈Tシャツ〉のデザインの他にも、〈ハンカチ〉や〈靴下〉などいろいろな輪郭の中にデザインをしました。〈窓〉や開いた〈ドア〉の向こうに見える景色、というのも描きました。〈ゴミ箱〉の経験から、あまり出来上がりの見栄えを意識せずに、感覚的にぱっと思いついたものを描くようにしました。もちろん出来の良くないものもあったのですが、そういうときはカウンセラーに「どうですか?」と感想を聞かれたときに「良くない」と言えばいいだけのこと。
J先生は、絵の出来について自分の感想を言うことはなく、私が「良い」と言えば賛成してくれ、「良くない」と言えばうんうんと頷いて不満足な私の気持ちを肯定してくれる、という態度でした。私が「良くない」と言うときに「でもここは良い」などと無理矢理ほめたりもしません。そのように自分の描いたものと自分の言うことを受け入れてもらうことで、私はだんだん自由な気持ちで描くことができるようになっていきました。
それが、はっきり形として現れたのが、画材です。初めは、上手くいかなかったら消すこともできるクーピーペンシルで描いていたのですが、2回目か3回目の時から、ポスカで描く気になったのです。自分の中で、何か変化が起こりつつあることを感じました。
絵画療法では、絵を描くだけでなく、コラージュもします。ここでは、J先生が紙で作ったいくつかの形を使って、〈平和〉〈恐れ〉などを表現する課題をやりました。初めから使える材料が限定されていて、しかもそんな抽象的なテーマなのですから、難しいです。でも、誰が見ても難しそうな課題なのだからうまくできなくて当たり前、という感じがして、かえって気楽に取り組めました。そして、工夫してなんとか作ってみると、ちゃんとそのテーマにあったものが作れたように思えて、「私って、意外にやるじゃない」というような自己評価ができました。調子に乗って、自分でもコラージュ用の紙片を作って行ったりもしたんですよ。

カウンセリング体験記1

子どもの時のことから、最近のことまで、書いておきたいことはいろいろあるけれど、それは追々書くとして、まずは私がカウンセリングを受けた時のことから書かないと、始まらないだろう。
カウンセリングを受けたのは、25歳の時、かな。おっと、既に四半世紀前か。
実は、この時のことは、18年くらい前に一度文章に書いたことがある。当時、某“相談員”という仕事をしていて、それは“カウンセラー”程の専門職ではなかったけれど、カウンセラーの下請け的な、多少カウンセリング的なこともする仕事だったもので、そこの職場の人向けに出していた“通信”に、自分の体験を書いた。その時の文章の一部が残っているので、それで記憶を補強しながら書いていこう。

カウンセリングを受けることになった直接のきっかけは、母とのケンカだった。詳しい内容は忘れたけれど、母が私のことを「わかってくれない」みたいな、思春期・反抗期のようなことだったような気がする。25にもなって。
そのケンカが“物別れ”に終わりそうだったので、私が母に、
「カウンセリングを受けるから、カウンセラーを紹介して」
と最後に言った。

私の母は、心理カウンセラーだ。私立の学校でスクールカウンセラーをしていて、この3年くらい前には、自分でカウンセリング・ルームを開設した。まだ、臨床心理士という資格も無かった頃から、カウンセラーだった。
子どもの頃から私は、母が周囲から「カウンセラーだからいいお母さん」という評価をされていることを、なんとなく感じてきていた。子どもというのは素直だし、親がいい評価をされることが嬉しくないはずもなく、「うちの母は、いいお母さん」なのだと思っていたのだろう。
「いいお母さん」に育てられているはずなのに、感じる違和感。子どもの頃は、その原因は自分にあるのだと、漠然と思っていた。そういうエピソードは、また折りがあったら書くとして。
今になってみれば、親の方に問題があったとはっきり言えるけれど、25歳の私は、母親に問題を感じ始めていて、初めて表立って反旗を翻したのが、この時のケンカだったかもしれない。
カウンセラーの母親とのケンカで、「カウンセリングを受けるからカウンセラーを紹介しろ」と言うのは、かなり辛辣だね。

18年前の文章を引用する。

ド素人相談員の カウンセリング体験記 vol.1
<図太い神経、カウンセリングを受けに行く>
「カウンセリングを受ける人」というと、たいていの場合、繊細でデリケートな神経の持ち主がイメージされるように思うのですが、私は残念ながらデリケートでも繊細でもありません。カウンセリングを受けていたのは6年前(まだ独身でした)ですが、基本的に当時も今と同様、神経が太くて図々しい、さらに鈍感な人間でした。そんな私が、どうしてカウンセリングを受けようということになったのか。その直接のきっかけは親子喧嘩(この話は、あまりに個人的なので省略します)だったのですが、本当の理由は一言で言えば「もう少し、デリカシーのある人間になりたい」というようなことでした。教師になって2年目だった私は、仕事で壁にぶつかっていること、そしてその原因が“繊細な神経”や“敏感な感性”を持ち合わせていないことにあることを、薄々感じていました(神経が太くて鈍感というのは、自分一人生きていく分には幸せでいいのですが、人間相手の仕事をしていくには、あまりいいことではないのです)。そして、カウンセリングを受けたら、何かもう少し“まし”
な自分になれるのではないかと思ったのです。
さて、そのようなクライアントを迎えたカウンセラーJ先生(知り合いの知り合いで元々顔見知りでした)は、ちょっと戸惑ったようです。日本では、こんな軽いノリでカウンセリングを受ける人はあまりいませんから。でも、とにかくカウンセリングを始めることになりました。
まず最初の面接(インテークと言います)では、私がカウンセリングを受けに来た理由を話し、そして今後どのようにカウンセリングを進めていくかを話し合いました。カウンセリングの典型的な方法は、カウンセラーとクライアントがクライアントの抱える問題について話し合う、というものだと思いますが、それ以外にもいろいろな心理療法の技法があります。J先生はいくつかの技法を提示してくれ、その中に「絵画療法」というのがありました。絵を描くことが心理療法になるという理屈は、その時はよくわからなかったのですが、私は無性に「絵画療法」をやってみたくなりました。私は絵を描くことが大の苦手で、コンプレックスもあったのですが、仕事で絵を描く必要に迫られることが多かったので、心理面が改善されてついでに絵も描けるようになったらラッキー! と思ったのです。それに絵を描いたりすると、何か感性が磨かれそうな感じもしましたし。
そして、絵画療法によるカウンセリングが始まりました。

この文章では、母のことには全く触れていない。そりゃそうだ。書き始めたら厄介なことになる。
今読むと、突っ込みどころはいろいろある文章だけど、本質的なことは触れないように書くから、まあしかたない。
しばらくは、引用を続けていくことにしよう。

無意識くんと私

実家の親、特に母親との関係が悪い…私にとっては悪い、ということをここに書いてから、すでに5年くらい経ってしまった。
5年前は、親を「嫌だ」と思っている気持ちを、直接本人に向かって吐き出した、という話。
最近は、実家にそれなりの時間滞在するのは、お節料理を作りに行く年末だけなので、親との関係が変化したり何か進展したりする機会は、年に1度、という状態。
5年前に爆弾を投げつけ、翌年も「続き」をした。そこまでで、もう親に気を使う必要が無くなり、こっちの方が優位だ、という気持ちになったので、いくらか楽になった反面、「あの人(達)は変わらないな」とも思った。その結果、次の2回の年末は、特に深い話は何もせず、スルー。
このまま行くのかな、と思っていたのだけど、この夏くらいから、「年末に実家に行くのは気が重い」と思うようになった。じゃあ、行かなければいいのだけれど、「実家の広い台所で、お節が作りたい」という気持ちはある。
11月になると、年末がもう直ぐという気持ちもあり、通勤の電車の中などで、どうしたものかと葛藤していた。
なんで実家に行くのがそんなに嫌で、しかも、なんでそんなに実家でお節を作りたいのか? 自分でもよくわからず、自問自答…というか、「無意識くん」に問いかける。
それでも、よくはわからないけれど、無意識くんが、何か、怒っている感じはする。しょうがないから、今年実家に行ったら、母に問いかけてみようか。
「あなたは私が小さい時に、私の無意識くんにいったい何をしたの?」
と。

そんなことを考えて過ごしていた11月半ば、時間潰しに入った本屋で見つけた本が『毒になる親』。これは何か、運命か。
早速買って、読み始めた。
この本を読みながら、いろいろ考えたことがあり、その考えも紆余曲折あった。
読んでいるうちに、
「私と無意識くんと母を題材に小説を書いてみようか」
と思って、ちょっと書き始めてみたりもした。実際の経験通りだと、なんだか生々しい感じがするというか、抵抗感があったので、小説。
ただ、私には、エッセーは書けたとしても、小説を書く才能はない。書いたら何か見えてくるものがあるかと思ったけど、そもそも書き続けることが難しそうで。
どうしようかなぁ、だんだん年末は近づいてくるし…と思いながら、とりあえずは『毒になる親』を読み進めていった。これ、読んでわかったことは、「うちの親は『毒になる親』の中では、かわいいもんだ」けれど、「微毒ではあったにしても、やっぱり毒だったんだ」ということ。
やっぱりね、とちょっと満足しつつ、毎日の通勤電車の中で少しずつ読んでいきながら、いろいろ考えていたら、ある日、突然閃いた。あー、こういうことかも、と。
どこを読んでどう考えて、何を閃いたのかは、いずれ書くとしますが、とりあえず、今年の年末はこの閃いたことを母に話してみよう、と思って、気持ちに折り合いがついた。
と同時に、「小説なんかじゃなくて、自分の経験をそのまま書いてみようかな」と思った。
なので、今、これを書いています。
時間の経過を追って順番に、なんかではなく、順不同、思いついた順に、断片的でいいから、書いていこう、と。
まず何から書こうかな。
あー「無意識くん」について書かないといけないか。
この文章を読んでくれる人がいるかどうかはわからないけれど、もしもいた場合、いきなり「無意識くん」は訳わからないよね。
まずは、次回、無意識くんとの出会いから書くことにしましょう。

変わってない

40代半ばを過ぎ、ずいぶん白髪も目立ってきた。でも、自分の顔って、毎日見ているから、自分がどれくらい老けてきたのかはわからない。

最近約20年ぶりに会った、という2〜3歳年上の人がいる。その人の、あまりの老けぶりに、ちょっとショックを受けた。仕事関係の“素敵な先輩"というイメージだったから。はつらつとしておられるところなんかは、変わらないけれど。
自分も、傍から見たら、老けてるんだろうなぁ、とつくづく思ってしまった。

いや、待てよ。
1年半程前…いや、2年半前だったか、大学の部活の同窓会みたいな会があった。部創設以来30年分くらいのOB・OGがいて、しかも全国に散っているから、自分の同級生、前後の先輩・後輩の参加はほんの1テーブルを囲む程度の数人だったけど、その中に、学生時代に“好き"だったI先輩がいた。わざわざ地方から来ていて。
「好き」に「“"」をつけたのは、今振り返ってみると、いわゆる恋愛の片思いとはちょっと違ったかなと思って。当時の私は、「好き、好き」オーラを出して(当時は今みたいな「オーラ」って言葉もなかったけど)、I先輩にまとわりついていた(なんという幼さ!)と思うんだけど、先輩は優しく適当にあしらってくれていたなぁ。I先輩は、私を「振った」という意識かもしれない。
会に若干遅れて行った私が、自分の代前後の人達が集まっていたテーブルに近づき、挨拶すると、I先輩がテーブルの向こう側から、
「○○〜(私の旧姓)、おまえ全然変わってないなぁ」
と一言。
私は、なんだか、うれしい気持ち8割と、「先輩にまとわりついていた頃に比べれば、ずっと大人になったのにぃ〓」「それって、褒めてるのぉ?〓」というちょっとすねたような気持ち2割が、ぐちゃぐちゃと混ざったような“キュン"とした気持ちになりつつ、それを隠すように、仲良しだった同級生女子2人に、
「みんな変わってない〜」
と言ったりしていたのでした。いい年こいて(^o^;)
学生の頃、軽薄ぶってるところがあったから、
「I君は、今で言う“チャラ男"だったよねぇ」
と、さらに先輩の女性に言われていて、みんなで大ウケしたりもしたけど、I先輩は内面までチャラいわけではない。
その先輩が、最後に会った21歳の私と、45歳の私を「変わってない」と言ったんだから、それなりに自信もっていいのかな。
そんなことを考えると、やっぱり、年甲斐もなく“キュン"としてしまうのです。